「小津安二郎先生の思い出」
新藤兼人監督の本を読んで暫くして、本屋さんで笠智衆さんの
「小津安二郎先生の思い出」に出会って迷わず買った。
と言うのは、新藤兼人監督も小津安二郎監督の事に触れていて
「あんな良い人は、この先世の中に現れないだろう。」と
言っていたからだ。
その小津安二郎監督の事を生涯先生と呼び続けた笠智衆さんとは、
どう言う人で監督との関係はどうだったのか?と思いながら読み進んだ。
笠さんは、熊本の山のお寺の次男として生まれられた。
所謂「肥後もっこす」である。
知ってるある方は御存じだろうが、「もっこす」とは頑固者の事である。
昔私が勤めていた会社にも皆から
「あいつは、肥後もっこすだからどうしょうもない。」と陰口を聞かれてる人が居た。
その人は筋金入りの頑固者だった。
笠さんは無口でニコニコしてあるから、そう悪い意味で使われないにしても
まぁ、頑固者であったかもしれない。
しかしこの方は、やはり坊主の息子であった事を生涯忘れずに生きた人で
あったと思う。
昭和3年の「若人の夢」が監督の2作目の映画であるが、この作品から
最後の昭和37年の「秋刀魚の味」まで、全ての作品に笠さんは
使って頂いたそうである。
初めは役名もない様なものであったが、監督はどことなく笠さんを認めて、
映画と言う物、演技と言う物を現場で教えて下さっていたのかも知れない。
「監督亡き後も木下恵介監督や吉村公三郎監督、野村芳太郎監督にお声を
掛けて頂き、あの「男はつらいよ」シリーズの御前様の役を当てて下さった
山田洋次監督との御縁も全て皆さんが小津安二郎監督を尊敬してあったから
私を使って下さった。」とそう言う考え方を為さる人でした。
私はこの時新藤兼人監督が「自分のしっぽ」の話をしてあったが、
笠さんは「自分のしっぽ」は坊主の息子だと言う事を生涯忘れずに
自分の道を貫いた人なのだと思いました。
「自分のしっぽ」は何か?
分かったとしても、直ぐに忘れてしまい妄想を持ってしまいがちである。
どんな1時の栄えで着ている物が多少きらびやかになっても、
それに惑わされない謙虚さが、日本人の美徳であった筈である。
小津安二郎監督がフイリッピンで撮影中に終戦を迎え、
現地に引き止めにあった時に、次の船で監督は先に帰って良いと言われたのに
監督は籤引きで決めようと提案された。
その時点では、残った物は捕虜になるとか悪い噂が飛び交っていた時だった。
(実際はそんな事はないと後日判明したのだが)
そう言う時こそ人の本性を垣間見る事になる。
そして生涯忘れられない物である。
何かあった時この監督は、自分らを見捨てない。
その思いが結束となり、次々と良い作品が世に出て「世界の小津安二郎」と
言われる様になったのかも知れない。(私の憶測ですが・・・
今はもう、笠さんも天国の人となり、一足先に逝かれた方々と
監督を囲んで映画談義に花を咲かせているかも知れませんね。
(写真の鳥はムクドリです。雛が成鳥してムクドリの団体様がよく
頭の上を鳴き声挙げて飛んで行きます。)
by magic-days
| 2007-06-27 21:37